ぼく自身のノオト
ヒュー・プレイサー
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刊行日 2021/01/12 | 掲載終了日 2021/05/05
ハッシュタグ:#ぼく自身のノオト #NetGalleyJP
内容紹介
青年の普遍的思索。
500万部突破の世界的名著、待望の復刊。
1979年に出版された『ぼく自身のノオト』
(原題: NOTES TO MYSELF)を
初版時の瑞々しい翻訳で新装復刻。
青年期の心をめぐる、
生き方を確立する方法をさがし求める
心理エッセイ。
訳者新装版あとがき:きたやまおさむ
装画:中田いくみ
(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』)
*********
推薦:山崎まどか(コラムニスト)
13歳から20歳にかけて、
この本を何度も読み返し、
友だちや好きな人のみんなに貸した。
どのページのどの言葉も覚えている。
久しぶりに手にとって、これはもしかして、
いま必要とされている言葉ではないかと考える。
北山修の名訳だ。
*********
訳者あとがき(初版時)より
これは、一九七六年にBantam Pressから出版された`Notes to Myself―My struggle to become a person'の日本語訳である。著者Hugh Pratherがこれを書いたのが一九七〇年で、そのとき彼は三十二歳、まったくの「無名」で、これといった「肩書き」もなかった。初版はアメリカ南西部のユタ州にある小さな出版社Real People Pressから大した広告もせずに発表され、数年の間に百万部を売りつくしている。内容は、小説でも詩集でもない。個人の日記の抜粋である。原文にはページ数の印刷がなく、どこから読んでもかまわないようになっており、もちろん目次もない。数年前まで学校のカウンセラーをやっていたというこの書き手は哲学者でも文学者でもなく、「みんなと同じ平凡な人間」である。
彼はいっさいの虚偽を許容できないらしい。彼は内的な現実をできる限り受けいれて、自らの内部にある真実を読者に伝えようとする。日本語を利用するなら、タテマエを拒否して、ホンネをできる限り表現することで、「ぼく」を確立する方法をさがし求めている。ゆえに、創作性のないこの本を文学性や思想性によって価値づけを行う必要はないし、実際にそんなことは不可能だろう。発想や行動の基盤をつねに「ぼく」に置いて、その「ぼく」の一部や全部が「ぼく」から遊離していくこと、さらに異物が「ぼく」のなかに入りこんで「ぼく」をしばりつけること、を罪悪視するのなら、実に日記という表現形式がもっともふさわしいものだったのである。私たちはホンネを言うことを自らを被害者化することと同じであると考え、「めめしい」と言ってそんな「ぼく」を切りすてようとする。しかし、著者のホンネは、決して弱音を吐くことではなく、自らの弱音をも自らのものとして語って相手と交流しようとする態度は一種の強さでもある。
出版情報
ISBN | 9784422930893 |
本体価格 | ¥1,600 (JPY) |
NetGalley会員レビュー
それをやりたいと思うのも、やりたくないと思うのも自分。(本文より)
自分がそれを達成することを怖がっていないか?それで次のステップへ進むことに戸惑いを持っていないか?でも、どんな未来が待ってるかなんて今の時点ではわからない。わからないものを怖がっていてもしょうがない。やると決めたらやるしかない。やらないと決めたらすっぱりやめる。そこのところをあいまいにしてしまうからいつまでも迷ってしまうのです。
この本の初版は1976年に出版されました。45年経っても人の心の在り方というのは変わらないのですね。自分がやりたいと思うことを押し通していいのか?自分が誰かのことを嫌だと思うのは何故なのか?と悩んだり。人のためと思ってやっていることが、実は逆の作用をしてしまうということに気がついたり。
どのページを開いても「そうだよね」と思うことばかり。そうか、そういうことに悩んでいたのはわたしだけじゃないんだと気付いたり。どこから読んでもいいんですよという著者の思いは今も生きているのです。
これは自分の言葉だ、
と思う人が少なからずいると思う。いまの中高生にも。
個人的に考えの違う部分ももちろんあるが、
何がしか響く部分を多くの人が見つけると思う。
そのままでは形に残らない「感情」を、
「言葉」に置き換えることで可視化を試みた記録。
ぼくのノオト。
”小説でも詩集でもない。個人の日記”となっていますが日記の感じでもなく。
とにかく【完璧】を求める感じがした。
”「ぼく」を確立する方法をさがし求めている”
追及が強い表現だなと感じた。
取り留めもなく流れるインとアウト
読んでいるといろんな発見に気づく。
納得できる時もあるが、理解するまで何回読んでもわからない時もある。
本書を読み解くなら、「理解」しようとすることが「誤解」ということになるのだろうか。
この感覚は何かに似てる。
禅問答のように思考のインとアウトが流れていく。
自分の中にある、場所のわからない奥底で眠る答え。
そこに触れてしまいそうな感覚に、ハラハラしながら読んでいた。
いつの時もぼくと共にある、感情と理性が触発されていくように。
リズム感のある文章に一気読みしてしまった。
そのビートのようなものがこびりついき、規則的なテンポの波が微妙に変化する。
音叉でいえば共鳴。
なんとなく自分に似ている。
どこか内省的だか、届く人にはどこまでも届くような一冊である。
1976年に出版された本。いつの時代も人の感情面での悩みというのは変わらないものだと感じる。人間関係はもちろんの事、自分自身の心の動機や、ホントのホントの本心というのも実は分かっていないのかもしれない。共感出来る部分と出来ない部分はあるものの、著者の正直な思いに触れた気がする。
50年くらい前のベストセラーの復刻版だ。ジャンルで分類すると自己啓発、それとも哲学なのだろうか?。そこにあるのは言葉だ。そこには作者の感情が沈殿していて手に触れた読者の中に、まるでピアノの鍵盤を強く叩いたように腹の底から響き渡るのだった。例えば、こういうの・・・「ぼくのいけないのは、人生を生きようとするのではなく、分析しようとすること」とか「ほとんどの言葉は外の世界を描写することによって発達してきたのだから、ぼくの内面に起こることを述べるには不十分である」。読者によって響く言葉はそれぞれ、それも良い。