死者の民主主義
畑中章宏
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刊行日 2019/07/20 | 掲載終了日 2022/07/05
ハッシュタグ:#死者の民主主義 #NetGalleyJP
内容紹介
人ならざるものたちの声を聴け
20世紀初めのほぼ同じ時期に、イギリス人作家チェスタトンと、当時はまだ官僚だった民俗学者の柳田国男は、ほぼ同じことを主張した。それが「死者の民主主義」である。
その意味するところは、世の中のあり方を決める選挙への投票権を生きている者だけが独占するべきではない、すなわち「死者にも選挙権を与えよ」ということである。
精霊や妖怪、小さな神々といったものは、単なる迷信にすぎないのだろうか。 それらを素朴に信じてきた人びとこそが、社会の担い手だったのではなかったか。
いま私たちは、近代化のなかで見過ごされてきたものに目を向け、 伝統にもとづく古くて新しい民主主義を考えなければならない。
死者、妖怪、幽霊、動物、神、そしてAI…… 人は「見えない世界」とどのようにつながってきたのか。 古今の現象を民俗学の視点で読み解く論考集。
〔本書に登場するものたち〕 柳田国男、南方熊楠、宮本常一、今和次郎、ギルバート・C・チェスタトン、網野善彦、宮沢賢治、谷川健一、諸星大二郎、道祖神、河童、天狗、ザシキワラシ、潜伏キリシタン、仙童寅吉、熊、猫、アイボ、VTuber、浦野すず、飴屋法水、齋藤陽道……
出版情報
発行形態 | ハードカバー |
ISBN | 9784798701738 |
本体価格 | ¥2,100 (JPY) |
NetGalley会員レビュー
民俗学。主に近年の事象について論じている。震災後の東北で報告される幽霊の目撃談。ハロウィンの仮装。芸術祭、YouTube、アイボ、漫画。内容が短いと思いましたが、目次と見比べると、第2部までしか収録されてないですね。
曖昧さを寛容しない現代社会への警鐘。
「妖怪」や「幽霊」といった見えない存在が日本社会の中でどう育まれ顕在化し、変化していったかが記されている。
科学の進歩や利便性の追求によって、事象や概念の線引き、区別が増えていき中々、そういった類の存在がしづらい中、SNS上での存在や、日本版ハロウィンの中での考察は興味深い。
「心」という概念が続く限り、その存在は消えずに残るであろうことに安心し、ずっとそういう社会であってほしいと思った。
民俗学というと日本各地に残った古い事象を収集して意味づけしていくというイメージがある。畑中氏の論法は、むしろ現在起こっている事象を民俗という軸組で捉え直そうとしているように思う。書き下ろし論考ではなく、様々なメディアに書いた物をまとめた本とのことで自然と現代から書き起こすことになっているのかもしれないが。前書きにおいて筆者は、ラフカディオ・ハーンの言葉を引用し、「生きているものの日々のおこないは、おしなべて死者たちのおこないである」ことを民俗学者であるがゆえに認めざるをえないと述べる。「死者の民主主義」というタイトルは、死者や妖怪、人ならざるものではあるが人とともにあるもの達を現代社会の(現代社会においても)重要な構成員であることを知らしめる意味合いでつけたようである。
本書はまだ全編は読ませていただいていないのだが読んだ範囲でレビュー。第1部ではずばり、チェスタトンの「死者の民主主義」という思想、柳田国男の「死し去りたる我々の祖先も国民なり」という言葉を紹介。死者が公共性を持ちうるかを東日本大震災の幽霊、渋谷のハロウィンといったことを題材にし、さらに南方熊楠の鎮守の森保護活動、柳田国男の妖怪談などを通して考察する。第2部では諸星大二郎を語り、Vtuberと人形浄瑠璃から日本人のVR願望を導きだし、さらに「この世界の片隅に」を妖怪映画であるとするのである。第3部以降も興味をそそる章題が並んでいる。
民俗学の視点から現在起きている事象を見直すことで、なにやら不毛な議論を繰り返すこの国の民主主義を考えなおすきっかけになるのではなかろうか。
夢を食べる獏とAIのバグ
2部までのゲラ読みではあるが、付喪神や妖怪伝記、コスプレやYouTubeなどテーマの幅が広く素直に楽しめる。
また面白いのは旧アイボの葬儀であり、そこには日本人の民族的霊線信仰が見られる。
人が見る『怪』にフォーカスすれば、なるほど死者にも選挙権があるというのはこういうことかと妙に納得してしまった。
3部以降も是非読んでみたい。
本が好き!倶楽部
せいちゃん
自身のブログでレビューを公開しました。
リンク先(https://www.bunjinbookreview.com/review/%e6%ad%bb%e8%80%85%e3%81%ae%e6%b0%91%e4%b8%bb%e4%b8%bb%e7%be%a9/)を参照願います。
アニミズムはいつ失われてしまったのか。八百万の神のおわす国であった日本。土地神様に礼を尽くし、鎮守の杜はそこかしこにあったはず。今や人々の繋がりは薄れ、土地への愛も国への愛も、自分の源への愛も薄れているように思う。何もかもが希薄。この国はどこへ行くのか。私たちは何処へ向かうのか。
タイトルから政治的なテーマを期待して読んだので、民俗学的な内容に驚いた。
また、2章までのゲラ読みの段階なのだが、民俗学的な内容にも面白い点が見られ、楽しく読めた。
特に、AIBOの葬儀は読みごたえがあり、また、気づきもあった。
人が魂と思うものは生者に限らないのだと、改めて思った。
1点だけ、やはりタイトルと内容の齟齬が気になる。表紙を見て買った人は、内容に些か戸惑うのではないだろうか。
「人間と人間ならざるものの境界のような存在の事情に思いをいたし、彼らの言い分を聞いてみよう」と始まる本書、『死者の民主主義』。最近引っ越しと移動が多く紙の本を買えない身としては、電子書籍の発行が待ち遠しい本のうちの一つである。
冒頭で紹介されるギルバート・ルース・チェスタトンによる「死者の民主主義」という概念はこの本のタイトルともなる重要な軸だが、それは以下のようなものだ。「伝統とは、『民主主義を次官の軸にそって昔に押し広げたものにほかなら』ず、孤立した記録や偶然に選ばれた記録よりも、過去の平凡な人間共通の輿論を信用するもののはずであるという。伝統とは、言ってみれば『あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票券を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ』(p.13)」。
この概念は、民俗学がたんに歴史的過去及び現在的な人間の営みを探求する学問ではなく、死者−生者−まだ生まれぬ者の全てを射程に入れることができるという可能性を示している。実際、本書ではチェスタトンと柳田國男の死者の民主主義という枠組みから出発して、現代日本社会でひと目を引いた出来事(東日本大震災の霊魂譚、渋谷のハロウィン仮装、Vtuber、アイボの慰霊、秋田犬、飴屋治則の『何処からの手紙』など)を広く扱っている。そのどれもが民俗学的な知識の上に現代の出来事を語り直すという手法では共通するが、話題そのものは幅広い。伝統、民俗学という少し古びて見える言葉を新らしい語感に語り直す、古くて新しい本だ。一読をおすすめしたい。
死者も社会の一員である。この考え方はストンと腑に落ちました。
亡くなった人について、あの人が生きていたら今の社会をどう思うだろう、そう口にする人がいるのも、死んだ人間にも発言権があるべきという考えからではないでしょうか。
公開されているのは二章までですが、死んだ人、人でないもの、神、動物たちの生きる世界がたしかにあるのだと思えました。そして人が生きるのも、いくつもある世界のひとつです。
違う世界を垣間見る方法として民話や言い伝えがありますが、現代の私たちがSFを楽しむのも、いろいろな世界を行き来するためなのかもしれません。
本書で取り上げられていた作品も、民俗学の視点から見ることで、初めて知る作品のように新鮮に映ります。あらためて鑑賞してみたいと思いました。