僕はかぐや姫/至高聖所
松村栄子
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刊行日 2019/03/05 | 掲載終了日 2019/03/08
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内容紹介
進学校の女子高で、自らを「僕」と称する文芸部員たち。 17歳の 魂のゆらぎを鮮烈に描き出し、 センター試験出題時に話題騒然となった 著者のデビュー作「僕はかぐや姫」。 無機質な新構想大学の寮で出会った少女たちの 孤独な魂の邂逅を救い上げた芥川賞受賞作 「至高聖所」。 語り継がれる傑作二編が、待望の復刊! カバーイラストは上條敦士氏。
進学校の女子高で、自らを「僕」と称する文芸部員たち。 17歳の 魂のゆらぎを鮮烈に描き出し、 センター試験出題時に話題騒然となった 著者のデビュー作「僕はかぐや姫」。 無機質な新構想大学の寮で出会った少女たちの 孤独な魂の邂逅を救い上げた芥川賞受賞作 「至高聖所」。 語り継がれる傑作二編が、待望の復刊! カバーイラストは上條敦士氏。
出版社からの備考・コメント
松村栄子(まつむら・えいこ)
1961年静岡県生まれ、福島県育ち。京都市在住。
筑波大学第二学群比較文化学類卒業。
90年「僕はかぐや姫」で海燕新人文学賞を、
92年「至高聖所(アバトーン)」で芥川賞を受賞。
著書に、『雨にもまけず粗茶一服』『風にもまけず粗茶一服』『花のお江戸で粗茶一服』など、
エッセイに『ひよっこ茶人、茶会へまいる。』『京都で読む徒然草』などがある。
著者略歴
松村栄子(まつむら・えいこ)
1961年静岡県生まれ、福島県育ち。京都市在住。
筑波大学第二学群比較文化学類卒業。
90年「僕はかぐや姫」で海燕新人文学賞を、
92年「至高聖所(アバトーン)」で芥川賞を受賞。
著書に、『雨にもまけず粗茶一服』『風にもまけず粗茶一服』『花のお江戸で粗茶一服』など、
エッセイに『ひよっこ茶人、茶会へまいる。』『京都で読む徒然草』などがある。
おすすめコメント
私の血の中には様々な作家の物語が流れているが、 骨はこの「僕はかぐや姫」ただ一篇によって 形成されているに等しい。 ――宮木あや子
私の血の中には様々な作家の物語が流れているが、 骨はこの「僕はかぐや姫」ただ一篇によって 形成されているに等しい。 ――宮木あや子
出版情報
発行形態 | 文庫・新書 |
ISBN | 9784591162439 |
本体価格 | ¥0 (JPY) |
NetGalley会員レビュー
「僕はかぐや姫」
少女特有のみずみずしい感性が描かれた作品。
文芸部に所属する女子高生・裕生の生活で、「僕」と自称する文学少女特有の繊細さ、残酷さが細やかに記されていく。友人に対する同調・嫌悪、周囲の大人への反発、自身の中の不安、異性に対する恋慕・・目まぐるしく揺れ動く中、裕生は少しずつ少しずつ成長していく・・。
「至高聖所」
新生活を始めた少女の自分の居場所を確認する物語。
鉱物好きの沙月は入学した大学で同級生や、サークル仲間、破天荒なルームメイトとふれあいながら、自分の居場所を確認していく・・人為的に作成された学園都市、その中でも象徴的な図書館で行うという舞台。それは沙月に何をもたらすのか。
時計の針の音すらうるさいと感じる多感な17、18歳のころは風が通り抜けるだけで鳥肌が立つほど温度が0.1度変わるのが分かるくらい全ての刺激に敏感に過敏に反応してしまうのを繊細に表現されています。
30代の今となっては読みながら思い出す思春期の色んな所に尖っていた自分は黒歴史っぽく感じて恥ずかしくてちょっとなと思うけど、その頃にこの本に出会っていたら感化されて文学に目覚めていたかもしれないと思いました。
こういう感じの本、高校生の時好きで読んでいました。
なんというか、ぱっと読んだだけではちょっと理解しにくい感じ。試験問題みたいに深く読み込んだりしないとという感じで。センター試験で出題された作品とのことで、納得。
今は割と軽い感じでぱっと読んだらすぐ意味が分かり次々ページをめくりたくなるような作品ばかり読んでいますが、たまには腰を落ち着けてこういう風にゆっくりとページをめくりたい作品もいいなと思います。
想像していた話と全く違っていました。
「僕」から勝手に男の子が主人公と思いこんで読み始めると
女の子が主人公の、いや女の子達の話でした。
17歳…「自分って何だろう?」
「自分は正しい」
「本当に正しい?」
そんなことを思う時期なんだなぁ。
私自身も自分のことを「僕」と呼んでいた時期があったので
裕生達には違和感なくすんなりと入っていけました。
文中にある「女らしくするのが嫌だった」
私は幼少の頃からその思いが強くありました。
祖母からは常日頃から「女の子のくせに…」と言われて辟易していたんです。
祖母への反発から「僕」と呼んでいたのは小学6年生の時。
その呪縛は今なお健在で「女らしい」服装をするのは
まだ抵抗があります。
主人公の裕生ほど透明で純粋ではありませんが
思春期にある「自分とは?」と問う裕生に
かつての自分を重ね合わせて読みながら懐かしさを感じました。
<僕>こと千田祐生は17歳。
両親がいて、友人がいて、恋人もいた。
恵まれていないわけでも、飢えているわけでもない。
鎖でつながれているわけでもないけど、安全な柵の中で放し飼いにされているにすぎない、
自由だけど、自由ともいえない、ほんの少しの息苦しさを感じるお年頃だ。
自分にも身に覚えがある、その感覚。
見えるもの、聞こえるもの、あらゆるものに敏感すぎて、なんだか足場がおぼつかない。
自分を保つための何か、をいつも探していた。
それでいい、と思える自分を納得させるためだけの着地点らしきものを。
祐生にとってはそれが<私>であったということだ。
ぐるぐると、無意味に複雑に巡回する思考はこのお年頃ならではの懐かしさを感じた。
「僕はかぐや姫」、 「至高聖所」の二篇を収録。