国宝
上 青春篇 /下 花道篇
吉田 修一
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刊行日 2018/09/07 | 掲載終了日 2019/01/31
ハッシュタグ:#国宝 #NetGalleyJP
内容紹介
鳴りやまぬ拍手と眩しいほどの光、人生の境地がここにある。
1964年元旦、長崎は老舗料亭「花丸」――侠客たちの怒号と悲鳴が飛び交うなかで、この国の宝となる役者は生まれた。男の名は、立花喜久雄。任侠の一門に生まれながらも、この世ならざる美貌は人々を巻き込み、喜久雄の人生を思わぬ域にまで連れ出していく。舞台は長崎から大阪、そしてオリンピック後の東京へ。日本の成長と歩を合わせるように、技をみがき、道を究めようともがく男たち。血族との深い絆と軋み、スキャンダルと栄光、幾重もの信頼と裏切り。舞台、映画、テレビと芸能界の転換期を駆け抜け、数多の歓喜と絶望を享受しながら、その頂点に登りつめた先に、何が見えるのか? 朝日新聞連載時から大きな反響を呼んだ、著者渾身の大作。
出版社からの備考・コメント
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販促プラン
・朝井リョウ(読売新聞11/4)、斎藤美奈子(朝日新聞10/27)、 清水良典(週刊朝日)、大矢博子(共同通信)、西上心太(毎日新聞)ら、 各氏が書評で絶賛!
・9/29「王様のブランチ」にて特集されました!!
・『国宝』特設サイトにて、書店員さんの応援コメントや特報PVなど公開中!
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出版情報
発行形態 | ハードカバー |
ISBN | 9784022515650 |
本体価格 | ¥1,500 (JPY) |
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NetGalley会員レビュー
とにかく豪華絢爛な、華やかな作品でした。
題材になっている歌舞伎の衣装、舞台、演出、主人公やそのライバルとなる役者の演技の描写は美しく、
けれどその輝きの裏には常に苦悩と哀しみがつきまとっています。
物語を読み進めるごとにその二つは徐々により合わさっていき、ラストシーンではほとんど見分けがつかず、背筋が寒くなるほどです。
最後のページお読み終わった後は作中のこんなセリフが思い出されました。
「たしかに化け物や。せやけど、美しい化け物やで」
役者であると同時に人間。本書を読む前は、そう思っていました。読み終えた後は、世間の常識、人としての幸せよりも舞台の上に立つための生き方を、何のためらいもなく受け入れるのが役者なのだと思い知らされました。そこに立つとどのような景色が見えるのか、見させてもらえるのか。心地よいリズムに包まれながら、歌舞伎の知識など何もなくても圧倒的な力によって堪能させてもらえます。
天才が天才を描くと震えるような傑作が生まれる。これはまさに国宝級の小説です。なにがしかを成し遂げる時そこには様々な生きざまが垣間見る。聖と俗の中にその世界を極めた者だけがみる孤独が壮絶に美しく感度的です。
あの日に見つめた、夢のあしあと
吉田修一の最新大作「国宝」は、「夢」を描いた物語だった。
憧れを描いて夢を見て、生きる意味であるかのように夢にすがり、狂おしいまでの悪夢でありながらも、夢の中だけに果てる場所を見つけた人たちの物語。
この一生、歌舞伎役者にて。
いずれ国宝となる一人の男に対して、最初に浮かんだ感情は応援だった。それが次第に嫉妬となり、最後は敬意となった。
誰だって知っているはずだ。
たった一つのことに没頭し続けることは、決して容易なことではない。過ぎ行く時間は、どんどんと流れを激しくしながら情熱を削り取っていく。だから、夢を手放さずに生きることは困難なのだ。身に染みている。
幼い日に描いた夢も、進路に向き合って掲げた夢も、未練がましく捨てきれなかった夢でさえ、それが自分の中に納まりきらないほどの熱量を持っていたことなどなかったかのように、ふとした日には思い出の一場面となる。
暗くなったことにも気づかずに追いかけたサッカーボール、布団の中にまで持ち込んだ望遠鏡、指先に血をにじませながら弾いたギター、すべてのセリフを暗唱できるほどに繰り返し観た映画。
それに代わるものが、今の毎日のどこにある?
知らず知らずのうちに、いや、どこかで知らぬ気を決め込んで、自分の心に従うことをやめ、感情に左右されないことが大人になることだと思い込んで、そうすることで何とも分からない何かを守っていることにして、自分を納得させて生きている。
いつしか感動は持続することが叶わなくなり、どれだけ涙を流しても、どんなに心を揺さぶられても、想像していなかった感動に遭遇した時でさえ、次の瞬間には生活に溶け込めるようになっていた。今や何かに心をさらわれたまま、魅せられて生きる人生を想像することは、命の終わりを考えることよりも難しい。
本書の主人公は、三代目花井半二郎こと「喜久雄」、いや、喜久雄こと「三代目花井半二郎」。傷口のようにやわらかい心のままで、生涯を歌舞伎、女形の歌舞伎役者であることに捧げ、そうある人生に感動し続けた男である。
歌舞伎への知識などなくてもいい。己の人生に一度でも夢を見たことのある人ならば、きっとまだ、感動することができる。たとえページを閉じた瞬間から生活へ戻っていったとしても、明日には抱えていけない感動だったとしても、ページをめくっている間の一時は、あの頃を思い出させてくれるに違いない。
三代目花井半二郎が言う。
「それでもいつかは幕が下ろされるだろ。それが怖くて怖くて仕方ねえんだよ」
私も、一瞬とはいえ、そんな時を生きたんだよ。せめて本の中にいる間だけは、思い出すことを許してくれても良いだろう?
話の始まりはなんと長崎の街でのヤクザ同士の血で血を洗う抗争の場面。これでどうなるのと思ったら主人公はその後関西歌舞伎の世界に。
歌舞伎の世界というものもほとんど知らないのですが、まさにこの本に書かれた通りではと思わせるほど熱の入った文章でした。
それにしても、主人公やその家族、歌舞伎界に入って以来の友人などに次々と襲いかかる不運。まるでジェットコースターのような目まぐるしさでした。
それでいて、読後感は疲れを感じさせないものでした。
最後の場面。三代目花井半二郎が『阿古屋』の幕がまさに降りようとしたそのときの場面に強く惹きつけられた。役者の道を突き詰め、貫いてきた三代目の鬼気迫る迫力。そこに至るまで語り尽くされてきた物語の数々。それを思い出し、胸の奥を鷲掴みにされたような感動があった。
吉田修一「国宝」は、上巻にあたる「青春篇」と下巻にあたる「花道篇」を通じて、ひとりの女形歌舞伎役者の人生を描き出す。その役者とは、三代目花井半二郎。長崎の侠客一家立花組の組長立花権五郎の息子立花喜久雄として生まれ、その父をヤクザの抗争の中で失う。その後、ある事件をきっかけに大阪の歌舞伎役者二代目花井半二郎の家に預けられることになった喜久雄は、二代目の息子俊介とともに、歌舞伎役者としての道を歩んでいくことになる。
喜久雄の役者人生は、けっして順風満帆とはいかない。それでも、喜久雄は花井東一郎という名前をいただき、花井半弥こと俊介とともに、切磋琢磨しながら芸の道を歩んでいく。良きライバルであり親友でもある喜久雄と俊介。しかし、芸事の世界は人気と実力がすべてだ。やがてふたりの間には決定的な溝が生まれていくことになる。
世間を知らず、芸の精進におのれの人生の全てをかける喜久雄の姿は、読者の心にグイグイと迫ってくる。「どうだ、どうだ」と、「これでもか、これでもか」と喜久雄は、読者に全身全霊をぶつけてくる。それはまさに、現実の役者が舞台で魅せる芝居の迫力なのだ。
立花喜久雄、三代目花井半二郎の人生という大芝居を迫力のある舞台に仕立てているのは、本書の語り口調であることは間違いない。講談師の演目のごとく語りあげる文体があるからこそ、喜久雄や俊介、徳次、市駒、綾乃といった登場人物たちに命が吹き込まれ、さらに花井半二郎、花井白虎、姉川鶴若、吾妻千五郎といった役者たちにもその生命が染み渡っていく。物語の登場人物たちひとりひとりに与えられた命が、まるで本物のように立ち上ってくるのだ。
圧倒的な生命力を感じさせるからこそ、立花喜久雄の人生、三代目花井半二郎の役者魂は読者に感動を与えるのだ。そして、冒頭にも記した「国宝」という物語の大団円を迎えたとき、その感動は最高潮に達するのである。
**以下、本文引用
ですからどうぞ、声をかけてやってくださいまし。ですからどうぞ、照らしてやってくださいまし。ですからどうぞ、拍手を送ってくださいまし。
日本一の女形、三代目花井半二郎は、今ここに立っているのでございます。
**引用終わり
この壮絶なる役者魂に心からの拍手を贈ろう。腹の底から「三代目!」と声をかけよう。そしてなにより、この物語を生み出した吉田修一に最大の賛辞を贈ろう。
歌舞伎の女形として芸道を極めた役者、三代目花井半二郎。彼の本名は立花喜久雄といい、長崎の侠客・立花組大親分の跡継ぎとして生まれた。任侠世界から役者への運命的な転身、頂点と奈落を行き来する波乱の人生の中で喜久雄は常に、ある光を追いかけていた。
どんなに道は遠く、どんなに疲れていようとも、彼は力を絞ってあそこに見える星のもとへ行こうとする。その星は常に彼を導き、どんな困難も乗り越えさせる。しかし、星の煌めきに魅入られた者は、星より大事なものが無くなってしまう。血を分けた家族ですら、星の前では輝きを失う。
喜久雄の生い立ちがスピーディーに描かれる冒頭は、彼の秘められた激情と才能の冴えが披露される。15歳で歌舞伎界へ。生涯のライバルと出会い固い友情を結び、彼らは舞台に青春をかける。しかし、血筋がものをいう歌舞伎界のしきたりが、若きスターとして人気を集める喜久雄の前に立ちはだかる。
「アンタの血が守ってくれる。」
「アンタの体が勝手に踊ってくれる。」
出自が違えば激励の言葉も違う。それだけに、部屋子の喜久雄が由緒ある名跡を継ぐに至る展開は衝撃的で、歌舞伎界からの事実上の追放と復活が語られる中盤は一気に読ませる。
上下巻という長さにもかかわらず、この作品をたいへん読みやすくしているのは、「~でございます。」という柔らかな語り口であろう。随所に挟まれる歌舞伎の演目の解説は、噺家の軽妙な喋りのようだ。舞台の描写には、伝統の様式に役者の個性がにじみ出る所作の妖艶さ、匂い立つような美の魅力が凝縮されている。
個性的な脇役があまた登場する中、泥水をかぶっても役者の人生を支えようとする女たちがいる。芸も命なら人気も命、彼女たちは妬みも恨みも超えて団結し、生死のかかった世界を一丸となって生き抜いてゆく。その姿は逞しく賢く、同じ苦労を分かち合う者への優しさに満ちて胸を打つ。
人を魅了させずにはおかない天性の役者根性は、客にとっては寿ぎである。しかし、本人にとっては呪いなのかもしれない。芸道を歩むとは、見果てぬ夢を追うことか。読者を幻想に誘い込むような幕切れも、夢を追い求める男の人生にふさわしい。
本当に素晴らしい作品に出会うと読むのを止められず終わって欲しくない気持ちとそして物語の先へと心が揺さぶられました。
上下巻の大作、一人の人間の一生と周りの多くの人間の人生がこの作品にはありました。
良い事、悪い事、そして人生という物語全てが詰まっていました。
喜久雄と短い時間ですが共にしてその孤独な一生に涙し寄り添える事こそ、この作品の魅力だと思います。
長崎・丸山の老舗料亭。大雪の日、立花組の新年会は盛大に催された。
中学生の喜久雄は余興として「積恋雪関扉」の歌舞伎舞踊を披露し大喝采を浴びる。
喜久雄が風呂へ行った直後、このところくすぶり続けていた他の組から突然の襲撃を受け、組長だった父が亡くなる。
ここから喜久雄の人生は転変する。
極道の息子とはいえ育ての母が「極道にはさせない」と大切に養ってくれ、喜久雄はその日新年会に招かれていた大阪の人気歌舞伎役者、二代目・花井半二郎の元へ預けられる。
半二郎には跡取り息子・俊介がおり、年の近い二人は競って芸を磨く。
朝日新聞朝刊に連載してましたね。
その性質もあるのか、登場人物の誰を主役と読んでもぐっときてしまうシーンが連続する。
どのキャラクターも魅力的で、喜久雄の「弁慶」となる徳次はいつも彼の味方で身を挺して彼を守ってくれる。
春江や市駒、洋子、彰子など喜久雄をとりまく女性たちもまた良い。
喜久雄の美貌や外見に引っかかってなど、そんな単純さはない。覚悟を持った大人の女性たちと付き合ってこれたことは彼の幸運のひとつだろう。
伝統芸能継承者として生きる人たちの「普通」はそうでない人の「普通」とは全く質が違うと思っている。
歌舞伎が好きなだけで全く違う世界へ飛び込んだ喜久雄。
また稽古熱心でもあり、その秀でた美しさもありたちまち注目を集めるが「血」だけはどうすることもできない。
「俊ぼんの血い、ごくごく飲みたい」
は、後ろ盾のない彼の心からの叫びだろう。
この物語は柔らかな語り部の案内で進み、決して語りすぎずところどころ端折られ、歌舞伎の幕の展開と似ている。
一般の人より早く大人になって、役に励み、一気に駆け抜け仕事一筋に生きる役者たち。
その生き様は凄まじいものがあるが、個人的に最も印象に残ったのが二代目半二郎、万菊、そして五代目百虎ら・・・人気役者の死に様。
役者たちはぱっと華やかに咲き、そしてそれぞれの散り方を見せてくれた。
誰もがあっ晴れだった。
女性の私が大向さんになるには気が引けるけれど、その屋号を呼んで讃えたかった。
そして、歌舞伎のことしか考えていない男たちを補うように走りまわり、影となって助ける女性たちの覚悟が本当に素晴らしかった。
まさにエンタメ!
実は電子書籍は目にくるので苦手。うわ~どうしようと思いながら読み始めたが、あまりに内容に引き込まれてしまい読むのがやめられず。
テンポの良さもあり、上・下巻698頁。極上の時間はあっという間に流れ今も余韻が漂う。
『パレード』『春、バーニーズで』『悪人』『さよなら渓谷』『横道世之介』『怒り』と、映画化/テレビ化されたものを映像でたくさん見てはきたけれど、実は吉田修一を読むのは初めてである。
読み始めての第一印象は、「あれ、こんな文章を書く人だったの?」という感じ。文字と映像では随分印象が違う。その一方で、「ああ、でも、この人の書くものは次々とドラマ化されるはずだわ」という気もする。
読み始めてすぐに連想したのは五木寛之の『青春の門』だった。僕らの世代にとっては青春のバイブルである。
ともに主人公は少年、舞台は九州である。『青春の門』の信介の父親は『国宝』の喜久雄の父親と違ってヤクザではなく炭鉱夫だ。だが、同じように肝の座った男である。そして、父親亡き後、信介の親代わりになってくれた塙竜五郎がヤクザだった。
幼馴染で主人公を慕う女の子も出てくる。信介にとっての織江が喜久雄にとっての春江だ。
ヤクザ一家の宴席で喜久雄は歌舞伎を舞う。ヤクザの話に似つかわしくない冒頭である。タイトルが「国宝」だし、なるほど、そっちの方に進む話なのか、と察しがつく。
しかし、案の定、そこに対抗する組の襲撃があり、大乱闘の末、父は殺され、組は離散となる。
のちに喜久雄は父の敵討ちを画策するが失敗し、学校にもいられなくなり、父が死んだ宴席にたまたま招かれていた歌舞伎役者に引き取られて大阪に出る。そして、そこの跡取り息子の俊介と仲良くなる。
そこからまた僕の連想が始まる。今度は雲田はるこの漫画『昭和元禄落語心中』である。僕は原作は読んでいないが、2シリーズに渡って放送されたアニメーションを見た。
この話の八雲と助六のように、俊介と喜久雄は切磋琢磨する。一方は落語、他方は歌舞伎であるが、ともに日本の伝統芸能であり、ともにその最高峰を目指しているところは同じである。
2人の人格と芸風の違いが対照的に描かれる。ともに師匠との確執がある。恋も出てくるし、これだけ長いスパンを描いた物語だけに、死による別れも当然ある。芸の継承と血縁の問題にも触れる。
そんな風にこの小説はバラエティ豊かに進む。僕が『青春の門』と『昭和元禄落語心中』を挙げたのは、どこかで聞いたことのあるような話だという意味ではない。むしろ、他の名作にも通じる普遍性について述べたかったのである。
しかし、読んでいて少しく違和感を覚えたのは、登場人物の細かい心理描写がほとんどないことである。多くの小説では、ところどころで主人公の葛藤や苦悩や晴れやかな気持ちが、そこそこの行数、頁数を割いて描かれるものだ。それがここにはない。
だから、下手すると誰かがまとめたあらすじを読んでいるような気分になることがある。全体に展開が早く、月日を飛ばして次の章に移ることもあるので、なおさらそんな感じになる。
それからもうひとつ。僕は常々、小説というものは物語の背後にその書き手がいることを感じさせては失敗だと思っている。登場人物が勝手に立ち上がって動き始めてこそ、作家は人物に魂を込められたと言うべきだろう。
ところが、この小説では書き手、語り手の存在がはっきりある。存在を隠していないばかりか、「ご記憶だろうと思うが」とか「話を元に戻すと」などと、語り手が自分の存在を前面に出して語り尽くす。
これは言うまでもなく「狂言回し」というスタイルである。ネタが歌舞伎だからそのスタイルを選んだのか、この作家がいつもこういうスタイルなのか僕は知らない。ただ、心理描写の割愛、展開の速さ、そして、狂言回しの存在の3つが相俟って、少し淡々と運びすぎているような印象も持ってしまった。
ところが、そこからがこの作家の腕なのだろう。淡々とエピソードを重ねるスタイルではあるが、ひとつひとつのエピソードの組み立てのうまさで、ストーリーを右に左に大きく揺さぶり綴り合せて、作家はいつの間にか読者をぐいぐいと引っ張っていく。
中盤にあったちょっとした中だるみ感を、終盤には僕らはすっかり忘れてしまっている。
その結果、僕らの読書のスピードは終盤に一気に上る。そして、読み終わったとき、ああ、そうか、これがこの作家の終わり方だと気づいた。
文字で読むのは初めてだが、これは『パレード』『春、バーニーズで』『悪人』『さよなら渓谷』『横道世之介』『怒り』の全てに共通する終わり方である。結局のところ、「語り尽くさない」というところが、この作家の真骨頂なのか。とても余韻が深い。
この作家が何故これほど映像化されるかがよく分かった。それはこの作家が極めて映像的な文章を物するからだと思う。読み終わったときには完成に近い映像が読者の脳裏にできてしまっている。その読者が映画関係者であれば、もはやそれを映画化するのを止められないだろう。
一つだけ残念なのは、僕がもっと歌舞伎に詳しければ、作者が踏まえたあれやこれやにいっぱい気づいただろうし、話は僕の脳内でもっと映像化していたはずだということ。きっとこの本をきっかけに歌舞伎にのめり込む人もいると思う。
九州のヤクザの一人息子として生まれた喜久雄は、抗争で父を失い、「カタギに育てたい」という義母マツの願いもあり、大阪に出てくる。実は父親の仇を討とうして騒動起こし、九州にはいられなくなったというのが1番の理由である。
何かと世話をしてくれるヤクザの手配で、彼は歌舞伎役者の家に居候になる。そこから高校に通うのだが、もとよりマツの影響で、歌舞伎の真似事もやったことのある喜久雄、みるみるうちにその世界に魅せられていく。そこには跡取りの一人息子、俊夫がいて、2人は生涯をかけた複雑な、兄弟のような、親友のような、仇のような関係を続けていくことになる。
生来の美貌、才能と努力によって喜久雄は、敏夫とともに女形として少しずつ才能を発揮しだす。
しかし、その後の行く手には幾重にも連なる苦難の連続。それでも彼らは、あらゆる苦労さえも芸の肥やしとして、たくましく、美しく、成長していく……。
上下巻で600ページを超える作品。読み始めるときは、どのくらい時間がかかるかと思っていたが、実際に読み始めると止まらなくなり、仕事を除いた時間を全て読書に費やし、二日間で読み終わった。とにかく先が気になって仕方がなく、ほんのわずかな空き時間でも手に取ってしまった。
わたし自身は、歌舞伎をナマで見たのはほんの数回、という人間で、歌舞伎の世界を真正面から描いている本作をどれだけ理解できるか不安ではあった。しかし文楽が好きで月に1,2 回通っていたこともあってか、想像外にすんなりとこの世界に没入することができた。もちろんこれらの要素を知らなくても困らないように、作品の説明、演じる人物の説明など、細かに気配りされており、歌舞伎好きでも、全く知らない人でも、作品を楽しむことができるようになっている。
中心になるのは2人の若者で、純然たる血筋の後継である俊夫、なんの関係もないところから天賦の才で上り詰める喜久雄、とこの2人が歌舞伎という人生をかけた舞台で、時に争い、時に携え、ともに成長、成熟、そして老いを迎えていくのである。相容れない性格のように見えて、歌舞伎に対する情熱、それが2人を固く結びつける。愛憎半ばする2人の関係には、胸を痛めつつも、あっちを応援し、こっちを応援し、ええい2人とも応援して何が悪い! という心境になる。
彼らを取り巻く登場人物も多彩で生き生きとしている。それぞれの妻や喜久雄の愛人、隠し子。彼らの親。親がわり。さして忘れられない徳次。憎みきれないキャラクターで、彼の再登場シーンでは柄にもなく胸が熱くなった。憎めないキャラといえば、お笑いタレントとして成功する弁天もそうであるし、春江の義理の父親もそうである。どうにもならない運命にもがきつつも、皆がそれぞれに精一杯に笑い、泣き、精一杯に生きぬていく。この圧倒的な躍動する生命感。
歌舞伎界の人物描写も繊細で美しく、そして厳しい。非業の死を遂げる人、誰にも知られぬままひっそりとなくなる人、絶望の中で消えゆく人。それぞれが芸とは何か、というのを体現していく。才能のある人はもちろん、ない人も。
そしてやがて次世代が生まれ、育っていく。
喜久雄の最後の花道の美しいこと。切ないこと。儚いこと。
華やかなこと。
どうぞ一世一代の歌舞伎役者の人生を、皆さま、心して味わってくださいまし。
#国宝 #NetGalleyJP
国法(上下巻)
華やかな長崎任侠の世界の新年を祝う宴会で起きる、権力争いの抗争シーンから幕を開ける。その時、大親分立花権五郎には息子喜久雄がいた。戦いに負けて親分を亡くした組は崩壊し、喜久雄はつてをたどって大阪の歌舞伎役者花井半二郎に預けられる。そこには花井半弥の名を継いだ息子の俊介がいた。
ここから喜久雄の物語が大きく動き出す。
彼は、既に組の新年会で余興の踊りを見せて、同席していた歌舞伎役者の立花半二郎を驚かせていた。預けられた半二郎の家で喜久雄は俊介の稽古を見て胸を躍らせた。
半二郎は、俊介と喜久雄に品性まで備わった女形の才能見出す。
選んだとはいうものの選ばれたものだけが表舞台に立てる歌舞伎役者、中でも男が演じる女形という役になるべくして恵まれ美貌と才能、その上歌舞伎に魅せられなくてはならなかった喜久雄の運命の流れ。それはどんなことをしてでも辿らなければならなかった人生の一筋の流れ、それに喜んで命を懸けた喜久雄の宿命が、この時から華やかに峻烈に重く始まる。
喜久雄はたまたま見た女形の名優小野川万菊の踊りを見て魅入られてしまう。彼はここから女形という芸に向かって一筋に人生をかける。
このあたりは青春時代の若者群像のように明るい。芸とともに成長していく道程が鮮やかに描かれる。
語りの口調で進んでいく物語は、作者が準備した説話調の話し手の声は地謡のように物語の底を流れ、時には演目の由来や見どころを述べながら語り進んでいく。
この仮の声を聞きながら読み進んでいくのは、一時もとどまれないような喜びだった。
時には匂いたつような言葉で、演目と役者の所作を語る形も美しくわかりやすい。
喜久雄は厳しい芸の世界に絡んでくる世知の様々な出来事に悩む。家名の重み、それを継ぐ誉れと苦しみがそくそくと伝わってくる。
読みながらともに苦しみ悩み我を忘れてしまう。
喜久雄が地方巡業で得た苦しみから解き放たれ、役をもらって立ち上がった時に、襲名の屈辱から出奔した俊介もまたどん底から這い上がり、再会するところから、新たな友情を深めた晩年まで、暖かい話もあり無常を感じる部分もある。
至高の芸域に達した喜久雄は、それでもまだ歌舞伎の世界を狭いものに思う。実際より豊饒な世界を目指し続け、その芸は神格化されたように客席からため息が漏れていても、より高い世界、解放された精神を伴う昇華された世界を目指していく。
至難の姫役という「鎌倉三代記」の時姫。「本朝廿四孝」の八重垣姫の人形ぶり。「祇園祭礼信仰記」の雪姫の盗作した踊りを書き表して見せる作者の見事な語りは美しく力強く勉強にもなった。
古典芸能を知るいい機会で、おおらかな人柄ながら厳しい波を受け続ける主人公を作り出した作者の才能に感動した。
長崎の有力な任侠一家・立花組の御曹司として生まれた喜久雄。
しかし、強引な権力奪取をよく思わない対立組織・宮地組との抗争で、喜久雄の父・権五郎は刺されて亡くなってしまいます。
父の死を嘆く喜久雄は、立花組を継ごうと背中に刺青を入れたりして、自分が権五郎の仇をうたなければならないのだ、という思いを強めていきます。そんなある日、朝礼の挨拶に、自分の仇である元宮地組の大親分が来る、と知って、ドスを腹に仕舞い、いざ出陣で登校します。
いざ挨拶となり、足を踏み出し、大親分を刺しに行った喜久雄。あと一歩のところで、思いを遂げることは出来ませんでした。喜久雄の人生は、ここでゲームオーバーかと思いきや、二転三転。
このような喜久雄の成り行きぶりについて、作中に適切な表現があります。
「…あの喜久雄さんってのはね、言ってみりゃ、いい意味でも悪い意味でも、本人が文楽の人形みたいな人ですからね。ある意味、このお役には打ってつけなんですよ。でもね、ずっと綺麗な顔のままってのは悲劇ですよ。考えてもごらんなさいな、晴れやかな舞台が終わって薄暗い物置の隅に投げ置かれたって、綺麗な顔のまんまなのですからね。なんでも笑い飛ばせばいいって今の世のなかで、そりゃ、ますます悲劇でしょうよ」(p.398)
普段は、喜久雄のことを毛嫌いしているように見えて、実は深く気にかけてくれていた体育教師・尾崎の機転によって、敵討ちは不問、しかし、長崎から喜久雄は追放ということになってしまいました。それを、あまり深く考えもせず、唯々諾々と受け入れる喜久雄。
そうして、喜久雄は大阪の歌舞伎役者・花井半二郎のもとへ旅立つこととなったのです。
二転三転する立花喜久雄の人生を、高度経済成長以後の日本社会を舞台にしながら、「ですます調」の語り口で物語って行く本書は、ところどころ辛く哀しい現実が現れるものの、それすらどことなくユーモラスで優しい気持ちになって読むことができます。
歌舞伎役者を目指す喜久雄のその後は、良いことばかりではありません。さりとて、悪いことばかりでもありませんでした。喜久雄の持ち前の負けん気が、困難な環境の中で、自分という花を咲かせる力となります。
例えば、歌舞伎役者としてのキャリアが不調だった時代、喜久雄が昔馴染みの監督のもとで映画に出演することになります。しかし、そこで待っていたのは、映画俳優の演技ができない自分のふがいなさを痛感するような出来事ばかりでした。
監督からは、演技を貶され、他の出演者からも邪魔者扱いされる喜久雄。最初は、他の出演者のNGの尻拭いとして、自分の演技が責められているのだと思っていたら、本当に自分の演技がダメだ、とみんなから思われていたという事実。
そのような状況に直面したとき、夜寝いていたら、酔った他の出演者たちに理不尽な暴行を受けてしまいます。
「おまえのせいで撮影が進まねえんだよ。いつまでも帰れねえんだよ」
酒臭い息とともに聞こえてきたのは、男たちのせせら笑いでございます。次の瞬間、思い切り腹を殴りつけられ、思わず漏らした嗚咽とともに喉を這い上がった胃液の臭いが鼻を抜け、奥歯を噛みしめるような痛み。
本気で叫べば声は出たのかもしれません。本気で抵抗すれば、逃げ出せたのかもしれません。ただ、大阪の幸子とて同じなのでございましょう。自分はこうなっても仕方ない。その気持ちが先に立つのでございます。
もう何も考えまい。
ここにいるのは自分じゃない。
気がつけば、なすがままに暴行を受ける自分を、その自分自身が部屋の隅で膝を立て眺めているのでございます。
それでも、登場人物の誰もが挫折しても、立ち直っていきます。立ち直る際に、多くの人がもたらす「おせっかい」とも言える援助、いわば義理人情の世界を、私たちは懐かしく感じることでしょう。
ただ、昭和が、美しい時代だったとは言いません。喜久雄は、自分の出自をこう述べます。
「そこで生まれ育ちましたから、悪く言いたくない気持ちはあります。ただ、そこで生まれ育ったからこそ言えますのは、あそこが決して美しい場所ではないということでございます」
この言葉は、喜久雄の人生の背景にある「昭和」という時代にあてはまるのではないでしょうか。
痴呆を疑われて出奔し、安宿で亡くなった、万菊師匠が同宿の人々に語った言葉があります。
「あれいつごろだったっけなあ。あの菊さんが寝込んじまったってんで、近所の酒屋で玉子酒作ってもらって持ってったことあんだよ。そしたら、菊さん喜んでなあ。しばらく枕元で世間話したんだけど、そんとき、なんの話からだったか、『ここはいいねえ』って言うからさ、『こんな小汚ねえ宿のどこがいいんだよ』って笑ったら、『それがいいんじゃないか』って。『…ここにゃ美しいもんが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ』って」
この言葉も、「昭和」という時代を表しているのではないでしょうか。
人生とは、偶然と成り行きに大きく左右され、故郷から遠く離れたところで、それを全うせざるを得ないのだという当たり前の感慨を、喜久雄の成長と変転、そして諦めと最後に至る悦楽の境地を見ながら、私たちも深く感じ入ることと思います。
そして、最後まで読むと、ああ、吉田修一らしい結末だ…と溜め息をもらすこと請け合いでしょう。
もしかすると、この小説は、喜久雄が昔をしみじみ思い出しながら、女形として語っているのではなかったか、と錯覚してしまうほどです。
涙と笑いと人生の悲哀にまみれるような、悩ましい読書体験が味わえます。
本書は、九州にその名を馳せた任侠一家の跡取り息子・立花喜久雄の一生が描かれた物語です。
舞台は長崎から大阪、そして東京に移り、彼が様々な人に出会い、支えられ、その美貌で歌舞伎の女形として、多くの観客を魅了していく姿が描かれています。
物語は、1964年の元旦、長崎の老舗料亭で、彼の父親・立花権五郎という愚連隊上がりの侠客が開いた新年会から始まります。
おお、歌舞伎役者の物語と聞いていたのに、極道の新年会……! とドキドキしながら読み始めれば、期待にたがわず、怒号と悲鳴が飛び交い、血が飛び散る新年会と成り果てました。
その新年会で、喜久雄は父・立花権五郎を殺され、仇討にも失敗した彼は、長崎にいられなくなり、以後、権五郎に変わって立花組を取り仕切る辻村の勧めで、部屋住みの徳次と共に、大阪の人気歌舞伎役者・二代目「花井半二郎」の元で生活をすることになるのです……!
物語は、戦後からバブルにかけて、そして平成へと激動の時代を突き進みます。
私には苦手意識があった歌舞伎の物語であったにも関わらず、上品で優しい語り口と、艶やかな描写に、熱で浮かされたように読み進めてしまいました。
生まれてすぐに母を失い、その後父親の愛人でもあり、女中をしているマツに育てられた喜久雄。
背中に彫り物があり、任侠一家の跡とりとして育てられた彼は、お調子ものですが、心優しい徳次と一緒に、寝台列車で大阪へやってきます。
喜久雄が15歳から迷い込んだ歌舞伎の世界でまず出会うのは、人気歌舞伎役者の御曹司である俊介。
血筋が重んじられることもある世界では、生まれた時から幹部役者である者の方が有利だろう……と思い読み進めていたのですが、その思い込みは序盤の方でひっくり返され驚きました。
二代目花井半次郎の養子となった喜久雄は、たくさんの苦難に出会います。
低迷する関西歌舞伎では役がもらえず、地方周りの日々。
そのあと、東京で転機を探り、映画界へも進出。
長崎時代から長く付き合っていた彼女との突然の別れ。
先輩からの嫌がらせ。
その出生を白い目で見られることも何度もあったのですが、男として、父親として、そして何より「舞台で生きる者」として、彼なりのやり方で必死に歌舞伎に食らいつき、歌舞伎界を代表とする女形へと成長してゆく様子は、時に切なく悲しく、時に気高く厳かで、ただひたすらに圧倒されました。
喜久雄の活躍はもちろんですが、私が印象に残ったのは、彼が舞台で活躍できるよう、周りで支える人々、特に女性たちのことです。
ほぼ毎日舞台に出ずっぱりで、ほとんど休みがない歌舞伎役者は、家族や周囲の人間が、一丸となって支えていかなければならないそうです。
「梨園は優雅なものではない。生き死にがかかった世界を一丸となって行き抜いていかなければ」と、“親がないのは首がないのと同じ”歌舞伎界を、俊介の母親である幸子が「どんな泥水でも飲んだるわ」と、実子の俊介だけでなく、喜久雄の世話もしていたのが心に残っています。
家族が病気になろうが、事故に合おうが、舞台に出ることを優先する世界……。
その世界で役者を支える女性陣、「夫や息子が舞台で活躍することが何よりの喜び」と、何が起きようがてきぱきと対処し、誇り高く振る舞うよう様子は、もう完全に私には一ミリもない強さで、惹かれるものがありました。
こんな凛とした女性にはどうしたらなれるのか……!
また、喜久雄は女性関係も大変複雑なのですが、女性同士が争いを一切起こさず、むしろ仲良く助け合っていたのも「ええええ」と不思議で、世間との違いを見せつけられた気がしました。
本書は喜久雄の他にも、たくさんの魅力的な歌舞伎役者や梨園の妻、漫才師、弟子や付き人が登場します。
無愛想ですが、根は陽気で、気を許した相手には誰より親身になる喜久雄が関わってきたたくさんの人々にも、涙なくしては語れない壮大な物語があります。
私は歌舞伎ド素人なのですが、この物語は本当に読めてよかった。
歌舞伎には演出家がいないこと、立ち稽古の回数も少ないので、それぞれに完成した役所を、座頭(ざがしら)を中心にその場で見せ合うことも初めて知ったほどなのですが……。
一生をかけて芸の道へ全てを捧げ、舞台で披露するものの凄みと、それをじっと支え続ける者の忍耐強さ。
人はこんなにも強く輝くことができるのか。そして、温かくもとても切ない生き物なのか……と、畏怖を感じる小説でした。
歌舞伎、観に行ってみたいです。
「パークライフ」のような端正な中短編から「悪人」のような大作まで自在にこなす技量、心理描写の厚みを持つ吉田修一が放つ、作家20周年を記念する超大作といえる本書「国宝」の発売までいよいよあと一週間に迫った。ぱっと手に取れば大部のボリューム、しかも語りはまるで題材となる歌舞伎の語り部かのような独特のナラティブ。一見のとっつきにくさは明らかだが、しかしそのとっつきにくさを越えて一気に読んでみると、読み進めるほどにその語りによって蓄積する「時代」の香気が艶やかで陰影に満ちた物語に彩りを与えてくれる。
ストーリーはヤクザの息子である立花喜久雄が、権力争いによる父の死をきっかけに関西の歌舞伎役者に預けられ、そして歌舞伎役者を目指していくというものだ。タイトル通り、一人の人間がただの向こう見ずな子どもから、国宝と認められるほどの役者になるまでの半生記、彼を巡る多くの人々の群像により描かれる一つの時代まるごとの風景……そして、その時代、日本という社会にあっても特異な世界観を持つ、芸能の世界の業と理。中でもライバルと言える俊介と喜久雄の関係は互いが互いの鏡であるかのようで、この二人の対峙が下巻以降ぐんぐん物語を加速させていき、一気にリーダビリティが向上していく。
主人公が任侠の世界から歌舞伎という芸能の世界へ移ったことに象徴的だが、この2つの世界はぶっちゃけていえばそれほど異なるものではない。むしろ、俗世とは全く異なる情理や伝統が支配し、世間的な道徳が時に全く通用しない、という点では似ているとすら言っていい。そうした、社会の中の異界とも言える境界的な立ち位置ゆえに、芸能と任侠の世界というのは時に相補的ですらあった。といっても、今の御時世、そうした社会の常識や道徳とはあまりに異なるローカルの掟は通用しなくなりつつあるのも世の流れ……本書はそのように、社会の風通しがよく、フラットに、裏側からいえば平板になっていく時代になる前の、濃密な異界の理屈がまるごと成り立っていた時代を語ったものだとも言える。
象徴的なのは、本書が長いタイムスパンを描いた小説でありながら、具体的に物語が何年に起きたことなのか、を指示した文章が意外と少ないことだろう。はじまりからして「その年の正月」。その少し後に物語の開始時点が「昭和三十九年」とあるので、本書全体の時系列を喜久雄の年齢から計算することは一応できるんだろうけど、扱う時代の長さの割にあまりに数字的な部分はあっさりしている。その物語を支える膨大な描写や世情風俗の雰囲気から、資料を使わず、具体的な時代をイメージしなかった、ということはないはずだが、不思議なほどにそこに数字というものが乏しい。むしろ、作中に出てくる歌舞伎の演目を解説するときのほうが客観的なようにすら思えてくる(なので、歌舞伎に縁のない読者も全く気にすることはない。具体的な物語との重ね合わせも親切なくらいわかり、その上でさらに畳み掛けてくるようなパワーがある)。
それはまるで、年表の中に数字として整理された形での歴史というものを、物語自体が拒んでいるかのようだ。年表に抽象的な数字として飾られる前の、時代の香り、情愛、痛み、温度……そうした物一切を愛でるかのように独特な語りは進んでいく。
新聞小説らしくイベントが起こり過ぎではないかと思うこともあるが(なにせ刃傷沙汰やら薬やら事故やらスキャンダルやらだ)、それが最後になるにつれ一本の流れへと統合され、そして最後の最後に全体を逆照射するかのようにその語りの真実が明かされる。最近の例だと、仮面ライダービルドといえばわかる人にはわかるだろう。いわば本書は、それ自体がとてつもなく面白い、歌舞伎を題材にした波乱万丈大河エンターテイメントに、全体を制御する語りの技巧を仕掛けた物語なのであり、純文学と大衆文学を横断した、と評される作者の記念作にふさわしい贅沢な一冊だ。
ボクが好きな登場人物は、竹野という人物。喜久雄と対面早々「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ?」と豪語し、以後二十年、時に敵となり、時に味方として喜久雄をサポートする、いわば「凡人代表」的な人物。そんな彼が、物語のクライマックスで喜久雄のある変貌に気付く。そしてその変貌に驚愕すると同時に、もう一つの事実にも愕然とする「気づいてるのはお前だけじゃねえな?」その変貌に、自分以外の歌舞伎役者たちや喜久雄の家族がもう六年も前から気付いていたことも……竹野の目を通して決定的な物語の転機が告げられると同時に、その異常自体も歌舞伎界という内側の論理では、むしろよいことだからと見過ごされる、いわば内外の目線の違いをまざまざと見せつけるシーンだ。
もうひとり欠かせない人物が、ヤクザの息子時代から喜久雄についてくる付き人の徳次。重々しいシーンも多い物語で一人一貫、喜久雄の味方であり親友でいつづける本作の癒やし担当であり、時々突拍子もない事を言い出して物語から失踪する予想のできないキャラクターだ。物語の最終局面で天丼ネタかのように、前半の失敗を思わせる言動を見せるが……彼の最後の登場シーンに声を出す読者はきっと多いことだろう。
『国宝』は吉田修一の作家生活20周年記念作品である。
歌舞伎を舞台にした上下巻の小説で、発売は9月7日。
このような情報は調べればいくらでも出てくるのだが、原稿を紹介されてすぐに、『国宝』というタイトルさえうろ覚えのまま読ませていただいた。
と、いうのも、「この本は誰が書いたんだろう?」などと疑問に思い調べる隙もないまま、みるみるうちに惹き込まれ、ページをめくり、気づいた時には読み終えていたのである。
『国宝』は上巻:青春篇と下巻:花道篇から成る。
上下巻を通して、物語は語り手の口によって語られる。この語り手も、ときに噺家のように朗々と、ときに友人のように悪戯っぽく、そして最後には―――と、こちらの目をひきつけてやまない。
青春篇は主人公・喜久雄を中心に様々な人が困難に立ち向かったりあるいは挫折する様が描かれる群像劇だ。
極道の跡取り息子として生まれた立花喜久雄は、父の死と組の失墜を機にかぼそい縁のあった歌舞伎界のスター・半二郎に引き取られた。喜久雄はそこで女形として修業を積み、おつきの徳次や半二郎の息子・俊介と共に成長していく。厳しい歌舞伎の世界を垣間見ながらも、若者たちのエネルギッシュな人生を見守ることができるまさに青春の巻である。
しかし、花道篇。
いくつもの困難を乗り越え、喜久雄は成熟した歌舞伎役者になっていた。結婚して娘も大きくなり、喜久雄も30、40と年を取っていく。そして徐々に、青春篇で描かれた人々の足掻き・壁、そのほか一切の業が一人の男に集約されていく。
立花喜久雄。
大人になった喜久雄は未だ美しく、未だ衰えず、瞳は妖しく開いていた。既に彼は読者の知る努力家で負けず嫌いの喜久雄ではなく、周りのすべての運命を孕んだ、それどころか古今東西の歌舞伎で描かれた妖艶で非業な女たちの運命さえも孕んだような存在。
まるで「歌舞伎界の波乱万丈な群像劇」の皮の内側からカリカリと引っ掻いて、まったく得体の知れないものが出てきてしまったかのような不気味さは、心の底から素晴らしいと感じた。
立花喜久雄がどのように「魔」となったのか、そして彼はどうなったか、ここで触れることはしないが、この作品はただの青春小説でも、人間ドラマでもないと確信している。
人間という個を超えた、なにか大きくておそろしい、形のないものを描いている傑作である。
順風満帆とは言えないけれど、役者の道を突き詰めてきた三代目花井半二郎の迫力に圧倒された最後の場面でした。
それと同時に三代目花井半二郎こと立花喜久雄に起こったそれまでの出来事を次々と思い出し、幸せそうな顔で劇場から出て行く姿になぜか安心もできたのでした。
この物語の主人公は、昭和25年、長崎の立花組の一人息子として生まれた立花喜久雄でございます。対立する宮地組との抗争により父を失い、組も事実上解散してしまった喜久雄は馴染みのあった関西の歌舞伎役者・花井半二郎の下へ弟子入りいたします。そこで、半二郎の一人息子俊介と切磋琢磨し、一躍スターへ駆けあがるのでございます。
文末が「ございます」という講談調でつづられており、文章の中身も講談らしく、一つ一つの描写も細かく、まさに歌舞伎、色鮮やかな様子が目に浮かぶようでございます。
それにしても役者というものは業の深い生き物でございます。本当の役者というものは職業ではございません。まさに生き物として役者なのでございます。そんな男たちを愛してしまった女たちというのも知らず知らずのうちに、役者の妻としてどんな苦境にあっても役者である夫の姿にほれぼれしてしまうのであります。
歌舞伎役者ではなく、任侠の世界出身という「血脈」のない喜久雄が「血脈」がモノを言う世界で、「歌舞伎が好き」という一途な思いで這い上がっていく姿は、読みながら時を忘れて胸に迫るものがございます。フィクションなのはわかっていても、まさに江戸時代の役者「中村仲蔵」を彷彿とすらさせるものがございます。
まるで朝ドラか大河ドラマを見ているかのような壮大な人生でございます。
今をときめく神田松之丞が連続公演で全698ページを読み語ってほしいと
「乞い願い、た~てまつります~」
本が好き!のいくつかのレビューを読んで歌舞伎俳優の話であるとは知っていたのだが、冒頭からヤクザの話だったのが驚いた。はじまりは1964年。ヤクザ(当時は任侠)の新年会で主人公・立花喜久雄が父親を殺されるところから始まる。仇討ちをしようとするも上手くいかず、喜久雄は歌舞伎役者・二代目花井半二郎の元に引き取られることになるのだが、そこで生涯のライバルとなる半二郎の息子・俊介と出会う。紆余曲折ありながらも二人は日本を代表する女形になっていくのだった。
短くまとめるとこんな話だ。描かれるのはヤクザの世界、歌舞伎の世界、そして何よりも俳優の業とでも言うべきもの。
喜久雄と俊介の子供時代から彼らが死ぬまでの人生が描かれているのだが、彼らと同じ時間を歩んでいる気になって、全698ページとかなりの大部なのだが気づいたら一日で読み切ってしまった。
全体が作者のモノローグ形式で進められているせいだろうか、気づいたら、この物語が史実なのではないかという気持ちにさせられてしまった(僕は読み終わったあと「国宝 吉田修一 実話」で検索してしまった)。
特に良かったのは、物語の終盤。読者が本書の物語世界のことを熟知してきたころに、モノローグ側が歌舞伎舞台を一緒に見ようと呼びかけるあたりだ。歌舞伎舞台を見たことなんでないのに本当に目の前に舞台があるかのような気持ちになって図らずもゾクゾクしてしまった。
ちなみに、本作には歌舞伎の作品が随所に織り込まれているため、自分のような素人には理解しにくい部分もあったが、解説もしっかりしているので最低限どんな作品なのか分かるようになっているので、歌舞伎を知らずとも十分楽しめるし、歌舞伎のことをちょっと知った気になれるのも嬉しい(当然、知っていたらもっと楽しめるだろう)。
ぜひともNHKあたりで映像化してほしい作品である。
出版前の本の書評を書こうというイベントにお誘い頂きまして、初の電子書籍で読みました。
たまにはこういう読書も新たな世界に出会えるので楽しい。
歌舞伎の話という情報のみで読み始めました。
だが始まりは九州の極道一家の正月祝いから始まる。
ヤクザの親分の一人息子の喜久雄が物語の主人公です。
中学生くらいか、まだ声変わりしてない少年が宴会の余興として「関の扉」の薄墨を舞う。
それが彼の生涯をかけた舞台の初めだとも知らず。
ここで一気に芸の道を志すのかと思っていたのですが、一転してヤクザの抗争と刃傷沙汰となる。
庭の白い雪が血に染まり、父親の権五郎は舎弟扱いしていた男に射殺された。
喜久雄の周辺で状況が目まぐるしく動いていく中で、ミミズクの刺青を背中に入れて父親の死を想う。
それは道半ばにして倒れざる負えなかった男の無念を引き受けてしまったかのようだった。
舞台と血の色と無念さが作品の中でずっと流れ続けていた。
紆余曲折あり喜久雄は上方歌舞伎の役者である花井半二郎の家へ引き取られていった。
そこで半二郎の息子の俊介と共に、歌舞伎役者としての稽古を積んでいく。
修行の厳しさは以前ドキュメンタリーで見たことのある歌舞伎役者の稽古風景そのままだったが、それでも痣だらけになりながらも楽しんで学んでいく主人公の姿が印象に残ります。
俊ぼん喜久ちゃんと呼び合いながら兄弟のように育っていくのも微笑ましい。
彼らがそろって「道成寺」を踊るくらいまでは厳しいながらもほのぼのとした空気が漂っている。
それが変わってしまったのは、半二郎の代役に息子の俊介を差し置いて喜久雄が指名されたことがきっかけだった。
自らの血筋ゆえに苦悩する俊介と、その血筋を持たないがゆえに煩悶する喜久雄の道は分かれていった。
失踪した俊介の代わりに三代目半二郎を襲名した喜久雄だったが、今度は先輩役者たちの嫌がらせで舞台に立つことがかなわなくなっていった。
映画や新劇と手を出してみるが、自らを傷つけながら進んでいく険しい道のりだ。
たとえタイトルからエンディングが予想できたとしても読んで楽しかった。
人生のドラマを効果的に彩っていくのが歌舞伎の舞台であり、美しい衣装が華をそえる。
歌舞伎をちゃんと見たことがないのですが、それでも舞い踊る姿が想像できるような描写だった。
読み終えて感じたのは、人生をどれだけ濃密に生きるかということだった。
極道の父親も、主人公も、彼の師匠も、そしてライバルだった師匠の息子も。
それぞれが時には迷いながらも自分の道を突き進んでいく姿が一番心に残った。